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東をどり

第88回「東をどり」が5/27~30で終わりました。
知り合いの芸者さんが出演されるので、今回初めて観に行きました。

「東をどり」とは…

1925年(大正14)4月落成の東京・新橋演舞場で始まった新橋芸妓(げいぎ)連の舞踊会。
京都の「都をどり」に倣い明治末から行われてきた「東(あずま)会」の流れをくんでいる。

歴史を知ると「東をどり」を観る価値がとても深くなりました。

簡単に説明すると…

江戸時代の参勤交代で江戸詰めになった各藩の留守居役が情報交換を名目に料亭で遊んだり、飲食していた。
金春太夫が賜った居宅地を芸事のお師匠さんに貸し、そのお師匠さんたちは美しい女性が多かったので、大名屋敷の歓送迎などに呼ばれた。
当時の江戸幕府の年寄に掛け合って「酌取り御免」という許可を得、芸事を披露することとなり、それが下地となって花柳界が形成された。

幕末、尊皇攘夷を胸にいだき西国から来た若い侍たちは、当時最高級の柳橋では相手にされず、新橋芸者が温かくおもてなしをしたので、ひいきにした。」

秘話は…

東海道線が名古屋まで開通の折、明治の元老、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨が新橋駅から名古屋駅まで汽車を一輌借りきりで新橋芸者を名古屋の花柳界に招待し、そこで踊りを披露させた。
当時の名古屋は、八代将軍吉宗と争った尾張候の芸能奨励以来、商売・芸事、共に大変盛んであったそうだ。 

残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りは名古屋では評判が良くなく、名古屋の芸妓に、「東京から離れ遠くから聞いていたときは、さぞや綺麗なことだろうと思っていたけれど、近くで見ると大したことがない。 まるで、「岐阜提燈」と罵られ、恥をかき、大変悔しい思いをしたそうだ。
肩を落として新橋へ帰ると、土地の重鎮が一年発起。全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えた。
稽古に稽古を重ね、もっと上手に踊りたいとの思いが、大正14年の新橋演舞場の建設に繋がっていったとか。 
当時の最先端のレンガ造りの新橋演舞場は、東をどりのこけら落とし以来、今に続く。」

年に1度の発表会。
長い時間を掛けて練習をされた踊り。この舞台で成果が披露される。
気持ちのこもったこの踊りを感動せずには観られないと言った感じでした。

是非、皆さんも1度は観られてはいかがでしょうか?

東をどり東をどり・フィナーレ

(東京本部 古賀)