理事長の部屋

CHAIRMAN'S ROOM

所長の顔がAccountant’s magazine 2016年6月号の表紙になりました

Accountant’s magazine 2016年6月号に所長のことが8頁に亘り、私の履歴書風に取り上げられました。渡辺俊之顔雑誌表紙Accountantmagazine36

「面白そうだ」の直感を信じ、様々な挑戦をし続けてきた。
好奇心+会計のベースが引き寄せてくれた充実人生

名門ゼミの一員となるも、就活に苦戦。会計士を目指す
「公認会計士は監査専業」というのは、かつての話。だが、渡辺俊之のように、「現場主義」を貫く監査、経営者に寄り添う税務、企業コンサル、行政監査、上場企業の社外監査役という都合“5つの顔”を持つプロフェッショナルとなると、唯一無二の存在といっていいのではないか。「私には、悠々自適の老後は似合わない」と語る71歳してこの多面的業務展開の原点をたどると、大学卒業後に独学でチャレンジした公認会計士資格取得に行き着く。

生まれたのは、終戦の前年、1944年です。プロフィールが「埼玉県行田市生まれ」になっているのは、母の実家であるそこが、親の疎開先だったから。戦争が終わると東京・中野に移り、私が小学校に上がった50年には、港区芝三田台町(現在の三田)に居を構えました。
東京のど真ん中といっても、当時は原っぱあり、せせらぎあり。セミやバッタやザリガニを取ったり、寺の墓場でチャンバラごっこをしたりの少年時代でした。東京タワーが建っていくのも見ましたから、まさに『三丁目の夕日』の世界なのですが、実は私は今も三田に住んでいるんですよ。周囲にお寺が多くて、結果たび重なる再開発を免れた。幼なじみは、一人残らず引っ越してしまったんだけどね。
都立九段高校に進むと、打ちこんだのが卓球です。といっても、技術はいまひとつ。得意はトレーニングのランニングやうさぎ跳びで、いつも一番だった。30歳くらいから風邪ひとつひいたことがないのは、あの時培った体力のおかげかもしれません。
大学は早稲田の第一商学部に通いました。なぜ商学部かといわれても困るのだけど、なんとなく数字が好きだった。余談ながら、母親は生真面目な人で、子供の頃から「金銭出納帳」をつけないと、小遣いをくれない(笑)。この前、中学時代以降の「帳簿」がごっそり出てきたんですよ。見たら、「プール代15円」「アイス10円」とか、それは几帳面に書いてあるわけです。もともとそういうのがあまり苦にならない性分だったのでしょう。

大学3年になり、ゼミの選択を迫られた時、憧れたのが、会計学の大家と称される染谷恭次郎教授の教室である。だが、「入門」を許されるのは、限られた成績上位者のみ。「とても無理だ」とあきらめかけていた渡辺だったが、幸運は意外なかたちで舞い降りる。時代は60年代半ば、折しも学園紛争が盛り上がるなど、大学内部にもいろんな意味で変革の機運が横溢していた。そんな空気を反映してか、染谷ゼミもその年から受講資格を緩和し、間口をやや広げたのである。

「ぜひ先生のゼミで勉強させてください」と手紙を書いたら、「参加していい」と。まあ、喜んだのも束の間、入ってみると周囲の水準の高さに圧倒されるばかりでしたけど、染谷先生の授業から得るものは、やはり多かったですよ。
4年生になるのは、あっという間。今度は就職活動です。俊才揃いのゼミの同級生たちは、金融機関や商社などの超一流どころにどんどん決まっていくんですね。しかし、同じ「染谷ゼミ生」でありながら、成績に少々難ありの私には、これと思う企業からなかなか色よい返事がもらえない。
「会計士の資格を取ろう」と本気で考えたのは、この時期でした。数字は嫌いではなかったし、資格を取ってバリバリやってる先輩もいるし、と。もし、どこか拾ってくれる会社があったなら、喜んでそちらに行っていたでしょうねえ。思い返してみると、あそこは人生の大きなターニングポイントでした。
ともあれ、決めたからにはできるだけ早く会計士試験に受からなければなりません。でも、当時は受験の専門学校なんてない。そこで、早稲田のCPA研究会という勉強会をベースに、試験突破を目指しました。研究会では、合格したOBが面倒をみてくれて、週1で試験もやる。同じ目標を目指す仲間たちとの切磋琢磨も刺激になりました。友人と2人で湯河原の民宿を1カ月借り切って合宿をやったり、なんていうこともやりましたね。
しかし、基本はあくまでも独学です。今でもそうなのですが、私は計画を立てるのがあまり好きじゃない。勉強は、「事後管理」で統制しました。どの科目をどれだけの時間やったのかを記録して集計し、足りないところを補う。これを繰り返すわけです。
そんな勉強の日々に、それなりの手応えを感じていたのですが、1年目は不合格。当時の二次試験合格の目標を突破したのは、2度目のチャレンジとなった70年のことでした。

勃興期の監査法人へ。
「教科書」と違う
現実を学ぶ
 71年4月、渡辺は監査法人千代田事務所(後の中央青山監査法人)に入所する。上場企業の組織的監査を目的とした監査法人制度自体、4年前の67年にできたばかり。そんな時代だった。

事務所を設立した7人の会計士が、それぞれ6、7社のクライアントを抱えて飛び回っていました。新入りはその補助をするわけですが、とにかく実務を覚えるのに無我夢中で、「自分たちが新しい時代の監査を担うんだ」などと肩に力を入れる余裕はゼロ。でも、見ること聞くことすべてが新鮮で、仕事は楽しかったですよ。

特に教科書で習ったことが現場で生のデータとして見られるのは、面白かった。「標準直接原価計算」なんていうのが、実務として目の前で行われているのに遭遇すると、感動的でさえありました。

同時に、「教科書との違い」も痛感させられましたね。例えば間接費の配賦について、教科書的にはわりとさらりと触れられているだけなのに、企業によっては、ものすごいボリュームの書類を用意するわけですね。ここにこんなに労力や時間をかけるのは無駄ではないか、と思えるほど。しかしそうではなくて、それこそが経営に必要なデータなのだということがわかってきたのは、それなりに経験を積んでからのことです。

とにかく、世の中には多種多様な「生きた」会計事象があるのだということが、監査の仕事を通じてよく理解できましたよ。その一つひとつについて、先輩たちに混じって真剣に論議もしました。クライアントの経理や財務などにも、当時の私などよりはるかに知識と経験を持った人が数多くいて、逆に勉強もさせてもらいました。そうやって、徐々に会計士としての考え方の基礎を身につけていったわけです。


とはいえ、できたての監査法人の忙しさは、想像を超えていた。実は渡辺は、入所翌年に結婚する。休みをもらってハワイに新婚旅行に出かけたまでは、よかったのだが……。

帰国して新聞を広げて、びっくり。クライアントだったある企業が倒産したのみならず、決算に不正があったのではないか、と取りざたされる事態になっていたんですよ。携帯端末で、どこでもニュースが見られるような時代じゃないですからね、戻ってきたらいきなり天国から地獄です。
翌週からは新婚生活どころか、連日の“午前様”状態。膨大な会計資料をひっくり返して、不正の痕跡を洗うわけです。どうやら悪さを働いたのも会計士だったらしく、簿外の手形の振り出しだとかの手口が巧妙で、それは大変な作業だったことを記憶しています。まあ、地検特捜部みたいな仕事は、私自身にとってはエキサイティングでもあったのですが、当然のごとく妻には大いに呆れられました。
当時の仕事で印象に残るものといえば、建設現場の実査、立ち会いにも驚きましたね。建築途中の建物に上って、内部を検証するわけですけど、足がすくむような高さ。ここから落ちたらどうするんだ、と(笑)。
ただ、そんな経験もしながら「現場に行くことの大切さ」を体に染みこませることができたのも、あの時代に得た大きな収穫でした。建設現場にしろ棚卸にしろ、実際に足を運んでヒアリングすることによって、帳簿だけではわからない部分が見えてくる。あちこち現場を見ることによって、「この会計事象にはこのあたりに問題がありそうだ」とイメージできるようになるのです。そこが会計士にとって大事なポイントでもあるし、強みにもなる。この信念は、今も変わりません。
私は今でも、森林を実査するために、ヘルメットに長靴で道なき道を分け入ったりするんですよ。歳を考えて、危険なことからはそろそろ引退しないといけない、とも思うのだけどね。

独立し税務に携わる。
やがて
共同事務所を設立
 75年、前年に公認会計士第三次試験に合格し、監査法人内での役割もいよいよ重きを増そうかというタイミングで渡辺は退所し、個人事務所(渡辺俊之公認会計士事務所)を設立した。以来、自身が監査・税務兼業→税務専業→監査中心→再び税務・監査兼業――と個人史に記すような「事業遍歴」を重ねていくことになる。それにしても、入所4年目、ちょうど30歳の決断の動機は、何だったのだろうか。

もともと飽きっぽい……というと語弊がありますね(笑)。基本的に“新し物好き”なんですよ、私は。何か面白い仕事ができそうになると、あまり迷うことなくそっちに行く。
監査の仕事は楽しかったけれど、つまるところ他人の行為の検証で、あんまり創造性がないのかな、マネジメント・アドバイザリー・サービスなんていうのも面白そうだな、という気持ちも芽生えてきて。要するにそろそろ違うこともやってみたいと思ったのが、転身の一番の理由です。
とはいえ、食べていかなくてはなりませんからね。個人でもできる税務の仕事を始める一方、引き続き補助者の立場で監査法人の監査業務を手伝わせてもらいました。
次に転機が訪れたのは、39歳の時でした。私と同じように千代田事務所を辞めていた京都の先生から、「会計士の共同事務所をつくろう」と声がかかったんですよ。「若い人間を集めて、既存の監査法人とは違う何かをやらないか」と。面白そうじゃないですか(笑)。そこで、東京側の事務所の取りまとめを引き受けました。結局、東京、京都のほか福岡、札幌などの会計士も加わって、総勢19事務所で「優和公認会計士共同事務所」を設立したのです。
このタイミングで法人の監査業務からは退き、新たな取り組みに完全にシフト。そして「今までの監査法人にない組織」構築に向けてアイデアを出し合い、研修なども始めました。
ところが、仕事というものは、往々にして予期せぬ方向に転がっていくものです。共同事務所をつくった80年代半ば、「一人医療法人制度」ができて、その設立ラッシュが訪れたり、事業承継対策が切実なテーマになったりと、税務関連の案件がどんどん増えたんですよ。監査に一石を投じようという思惑とは裏腹に、気づいたら業務は税務オンリーになっていたのです。
独立して以降、税務でもいろんな経験をさせてもらいましたね。初めのうちは、税務申告書も自分で作成しました。手書きだから、朝の6時頃起きてやらないと間に合わない。ずいぶん苦労もしたけれど、後から考えると、それで税務を覚えたようなものです。
上場企業の監査と違い、税務で向き合うのは、中小企業の経営者。中には、明日にも首を括っちゃうんじゃないかというような苦境の人もいて、文字どおり苦楽を共にする感覚です。彼らからは、「税金問題」に限らず経営のあれこれについて、とにかく頼りにされる。親身になって頑張っていると、役に立っていることが実感できるんですよ。そこが、税務の仕事の一番のやりがいですね。

「このまま税務中心で行こうか」と考えていた渡辺だったが、ある時、「補助ではなく責任者をやるのならば、監査もいいな」と気持ちは動く。大きなきっかけは、96年から日本公認会計士協会の理事を務めたことだった。

最初は「とても時間は割けない」と断ったんですよ。ところが、当時東京会の副会長だった繁田勝男先生に夜中まで説得されて、結局OKしました。考えてみたら、協会の理事がどんなものなのかは、やってみなければわからない。ここでも「とにかく挑戦してみよう」の精神が勝ったわけです。
結果的に、その判断は“当たり”でした。ほぼ10年間、監査から遠ざかっていたでしょう。でも、理事になったとたん、最新情報が入ってくるのです。会計監査というものが、いかに経済社会の重要なインフラであるかを、再認識させられました。ブランクがなかったら、あんなに新鮮な気持ちになれたかどうか。
ともあれ、そうなると会計士としての血が騒ぐというか……。50歳という年齢を考えても、もう一度監査をやるなら今しかないと、またしても方向転換を決意したのです。
最初のクライアントは、労働組合でしたね。その後、大学、公益法人、金融機関など、徐々にお客さまの裾野が広がりました。ただし、自分だけですべてを抱えることはできません。学校法人の監査だったら誰、金融機関は彼というふうに、知己の会計士と組んで仕事をすることが多かったですね。うまくやれたのは、そういう仲間たちがたくさんいたおかげでもあります。
この連載に登場された歴代の先生方と違い、私は大きな事務所を率いていたりはしません。唯一誇れるものがあるとしたら、一般企業とは異なる公益法人の会計に詳しいことでしょうか。3分冊、3000ページのボリュームの実務本(『一般・公益社団・財団法人の実務』新日本法規出版)の執筆・編集に中心的にかかわったり、政府系委員会の委員として公益認定をやったり。そんな地歩が築けたのも、この頃取り組んだ仕事のおかげなんですよ。

楽しみながら、
40代、50代と同じ
仕事量をこなす
 2004年、会計士協会理事を任期満了で退任したのと前後して、渡辺はニーズの高い税務業務も“再開”する。独立直後と同じ税務・監査兼業へ、自身4度目の“業態転換”だったが、そこには多様な監査で得た幅広い知識、経験が上乗せされていた。同じ年、税理士法人制度のスタートという流れに乗って「税理士法人優和」を設立、理事長に就いた。

私たちの税理士法人は、会計士共同事務所と同じように、各地の事務所が統合するかたちで設立されました。現在は、東京,京都、茨城、埼玉の4拠点体制で運営しています。
全国展開していると、広くクライアントを獲得できますし、大きくなった会社の業務を分担することもできる。各拠点の成功例、失敗例といったいろんな情報を共有できるのもメリットだと感じます。それぞれの事務所によって経営のスタンスは違うので、無理やり文化を統一しようといった考えは、毛頭ありません。幸い今はネットやスカイプという武器がありますから、それを活用して月1の会議をやり、年に2回は幹部が顔を突き合わせて情報交換をしているんですよ。
今現在の私の業務比率を労働時間で考えてみると、監査が3割、税務も3割、企業などのコンサルティングが2割といったところでしょうか。残りは、行政監査と社外監査役の仕事に費やしています。
行政監査というのは、具体的には港区の包括外部監査人です。区の清掃事業などについて公会計の立場から監査を行い、効率化に向けた提言を行うわけですね。従来メスの入りにくかった分野に切り込むわけで、正直、けっこうきつい思いもします。でもそれだけに、やり方によっては世間にインパクトを与えることができる。これもほかにない面白い仕事です。
また、社外監査役としては、1部、2部上場会社を数社担当しています。ここでは、やはり座学ではわからないコーポレートガバナンスの現実に触れられるのが醍醐味です。いったい企業経営者はどうやって企業統治を行おうとしているのか? そもそも理想のガバナンスとは、どういうものなのか? 勉強のタネは尽きません。

こうしてあらためて見つめ直してみると、我ながらよくやるなあ、とは思いますね。仕事量は50代ぐらいの頃と比べ、実感として変わっていないし、この前自分の確定申告の数字をエクセルに入れてみたら、“数字的”にも、まったく落ちていなかった。
大学の仲間で一流企業に行った人たちは、とうの昔にリタイアして悠々自適の人生を送っています。年に何十日も海外旅行に行っているなんていう話を聞くと、羨ましくもあるのだけれど……。当面、私には無理でしょうね。70歳を超えても現役でいられることを、素直に感謝したいと思います。
最初にも話したけれど、学生時代の成績がもう少しよかったら、私は今ここにはいないでしょう。そうじゃなくて幸運だったな、だからこそ会計士になれたんだ、とつくづく思います。半世紀も昔のことに負け惜しみを言っても仕方ない、これは本心ですよ(笑)。

『下り坂会計士のマルチ人生』。渡辺自らのブログのタイトルだ。“下り坂”かどうかは置くとして、どこまでも多彩に、複眼的に生きようという意志が、そこには込められているのだろう。今目指しているのが、「遊びを仕事にすること」。どうやらこれも、ただの言葉の遊びではないようだ。

私の昔からのモットーは、「遊びながら仕事をし、仕事をしながら遊ぶ」なんですよ。仕事一筋ではつまらないし、長続きもしないでしょう。週末ともなれば女房と一緒にあちこち旅行したりするし、少し時間を取って海外へスキーに出かけることもあります。
ただ、いかんせん現役なので、実に忙しい。仕事か遊びかどちらかを我慢すれば、生活にずいぶんゆとりが生まれるとは思うのだけど(笑)。そこで考えたのが、遊びを仕事にすればいいじゃないか、ということなんですよ。
私は15年ほど前に沖縄の三線に出会って、すっかりハマってしまった。こう見えて、会計士協会の音楽祭に出演するくらいの腕前で、弾き語りの合間に「沖縄の経済特区に会社をつくろう」なんて講和をするわけです。沖縄でそんなことをやっているうちに、現地でクライアントも開拓しました。
スキーも趣味で、一昨年には1週間ほど休みを取って、昔からの仲間たちとフランスのトゥロワバレーを踏破したんですよ。山岳地帯を600㎞くらい、滑って超えていくのです。そんななかでも、パソコンがあればスカイプで秘書と直接やり取りできる。休暇中の海外からテレビ会議に出席することも珍しくありません。部下たちは嫌がっていますけどね(笑)。そういうふうに、仕事も遊びも渾然一体、前向きに楽しむわけです。
若い人たちに一言、ですか? 啓発し合える仲間を持つこと、そして「俺はこの仕事はやらない」というのではなくて、何にでもチャレンジしてほしい、ということでしょうか。
私の座右の銘は、「未見の我」です。人はみな、自らの能力に気づかず生きているんですね。今までとは違う新たな大地に立った時、初めて“まだ見ぬ自分”と出会うことができる。私はそう思うんですよ。
※本文中敬称略